H,cut,switch/3と2とHERO?

雑誌感想三連発(に、なればいいな…)、一個目はH。

まあもうこの際写真について触れるのはやめよう。すでに全国のさくヲタ1000万人(※正確な数字わかんないんだけどこれぐらいいるよね?いるよね?)が「かわいいかわいすぎるしぬ」と言ってることは大体予想つくしね!でもやっぱり一言は言っておく。死ぬほどかわいい!!1!!

で、テキスト。どちらかというと、櫻井さんの発言より三池監督の発言の方に興味が傾いた。ヤッターマンの在り方、というのは個人的に分かっていたつもりではあるけれど、やはり世代には勝てないなあ…と。勝てない、というより、(相手が三池監督だということも念頭に置いても)造詣が物凄く深いのだよね。戦争が終ってすぐ、まだ戦火の傷に喘ぐころにつくられた作品であって、だからこそ「ヒーローなんていなくていい」と訴えかけてくれるものであると。完璧でなくていい、誰もが普通であっていいのだ、というメッセージ性があると。なるほどな、と思った。
ヤッターマンに於ける、”どこかズレた部分のある主人公ふたり”と、”抜けまくってるけど憎めない三人衆”、という構造は、例えばそれまでの圧倒的な勧善懲悪主義を、別方向から批判しているように思えていた。いくら悪党だろうと、ひとつの志を胸に共に歩む三人…の、前に必ず立ちはだかる、「あいつら悪いことしてるみたいだからちょっと懲らしめてみようと思うんだよね」なんておよそ単純な思考・思想で動く二人。勝ち目がないと分かっていても立ち向かう人たち/いくら危機に陥ろうが、必ず「勝利」する人たち。勝利の向こう側に何か求めるものがあるわけでもなく、ただそこに自分たちが悪だと信じるものがあるから、9割の衝動と1割の好奇心をもって邪魔をする。ともすれば、どちらが本当の悪なのかなど、明確な答えなどどこにも存在しないようにも思える。ただ、ヤッターマンの二人も完全なる正義ではない。正義という言葉を、先ほど言ったように「好奇心」でもってちょっと短絡的に使用している、節があるのだ。よく言えば普通で当たり前、悪く言えば中途半端。でもだからこそ、正義を愛するヤッターマンを、ドロンボー一味を邪魔するヤッターマンを、愛せるのだろうなあ。卑屈になる必要がまったくない。かっこわるいのがかっこいいんじゃなくて、かっこわるいはかっこわるいまま、でもそれでいいじゃない、という安心感があったからこそ、あんなにも夢中になってこんなにも言葉にできるのだろう。
――で、まったく世代でない私がそう思えるのであれば、世代の方々が考えていないはずもない、と。圧倒的に「普通」を愛するからこそ、ヤッターマン(1号・2号というわけではなくて、作品全体を指す意味で)が自分のなかに息づいている。愛すべきキャラクターしか存在しないんだからそれはまあ当然なんだけど。なんとなく、三池監督の言葉でそれを聞けたというか知ることができたのは大きかったかな。三池インタビュー系はことごとく逃していたので(笑)、Hの仕事に感謝。

そんで櫻井さんが言った、メカ同士が戦うことの虚しさとか、トビウオが相手に勝てないことを知りながらそれでも立ち向かっていくことへの哀しさとかを口にしていて、ごめん、最初は噴いた。お前たいへんだな!とか思って本当にごめん。私がもっともっともっともっとメカ同士の戦いに注目してればよかっただけの話で、この記事を読んだあとにまたヤッター見に行ったら、なんでかジワッ…ときたよ。うん。ほんとだよ。ほんとだって…信じてよ…。あ、でもほんとアレです。虚しいと思うけど、空々しいわあ…と思うことはないのが三池クオリティなんだと。感じました。三池はすごいね…すごいよ…。バカげたところは必要以上(むしろ過多)に作りこむくせに、そういう、大仰にしてしまえば一気にサムくなる部分は適度に魅せる程度に留めてる。彼がぐわんぐわんにひねくれてるところがそうさせるんだろうけど、それでいいし、それがいいよ。

はーいいもん読んだ。普通に読書した気分でした。ありがとうありがとうヤッターマン。今日も見に行きます。今日で12回目だよ。もはやセリフほぼ全部覚えてるよ…☆